『労働通信』2003年9月号
現在、子どもの学力低下や「いじめ」、暴力問題が社会問題化している。中・高校生による犯罪が増え、凶悪化している。四年前、神戸で発生した「酒鬼薔薇小学生殺人事件」をはじめ、今年になってからも、沖縄での「中学生同士の殺人事件」、そして長崎市での中学生による「四歳児殺人事件」など、これまで想像もできなかった事態がおこっている。これらの事件は、特別な子どもやそのとりまく家庭環境の問題としてかたづけられないものをはらんでおり、経済の危機、政治・社会の腐敗とふかくかかわって進行している「教育の荒廃」の象徴的なあらわれといえる。
「いま、学校と子どもが危ない」、この解決のために奮闘することが教職員労働組合と教師、勤労父母にもとめられている。
現在、「教育荒廃」は、ますますエスカレートしている。子どものなかで、「自分の席にじっと座っていられない」、「朝会などできちんとたっていられない」、「給食時間に歩きまわる」、「集中力がない」、「自分さえよければいい」、「注意されても非をみとめない」などの傾向が増えている。また、自分のきらいなことはやらない――水泳がいやだと水泳カードをわざとわすれ、マラソン練習がいやだと体操服をもってこない――という傾向もある。
最近の特徴は、「いじめ」と子どもの教師への反抗である。この「いじめ」は、「きついことばで、他人の心を傷つける」、「持ち物をかくしたり、よごしたりする」、また、「いじめ」の対象にたいしては、何とはなしに避けたり、かかわらないようにして集団的に無視(村八分的)する。さらには、暴力をくわえ、苦痛を与えるなどとなっている。教師がカリキュラムへの参加をうながすと「いやなことをなぜやらなければいけないか」といい、また、教師が「なぜ、しずかにしないか」と注意すると、子どもは「しゃべっているのに理由があるのか」と主張し、私語をやめようとしない。再度、つよく注意すると、「何だよ」とか、「たたいていいのかよ」といって、教師にくってかかり、暴言をあびせ、暴力をふるうしぐさをするなど反抗的態度をとる。
これらの傾向は、今日のストレス社会による影響、さらには生活環境のいちじるしい変化の反映でもある。TVゲームの影響もひどい。これらのゲーム機は、たいてい一人か二、三人でできる。だから、集団的にものごとを考えて行動するということができない子どもが増え、会話や対話などのコミュニケーションがとれない子どもが増える。そして、それは自己中心的な性格を助長し、気にいらないと、すぐに「むかつく」、「キレた」といって暴力をふるうなど短絡的で衝動的な行動におよぶような事態をつくりだす根拠の一つにもなる。これは、暴力的なふるまいがおおく、「死ね」とか「この野郎、殺してやる」という乱暴なことばがとびかうという内容のTVゲームの影響でもある。
これに受験戦争が拍車をかけ、ますます子どもを追いこんでいく。学校では、塾にかよう子どもや、家庭教師がついている子どもが学校の授業を「かったるい」といらつき、勉強がわからない子といっしょになって授業中にさわぐ。親たちは、リストラや倒産が多発する今の世の中、「せめて自分の子どもだけは良い職に」と思って、塾通いなど受験勉強を子どもにおしつける。こうして徳育・知育・体育のバランスがとれない子どもが成長していく。長崎県で幼児を駐車場から突きおとした中学生は、成績抜群、討論をさせたら負けたことなどないのに、美術と体育の成績は最下位クラスだという。あくまでも、これは極端な一例かもしれないが、しかし、現在の教育問題をうつしだす鏡であるかもしれない。ストレス過重の子どもの社会、それにくわえて受験競争のための塾通いにたいするがまんが子どもたちのストレスとなっていく。これらのことは、受験戦争(塾通い)を誘発する政府の教育制度、政治、社会制度などによってつくりだされる。
「教育の荒廃」とたたかい、子どもの健全な育成をかちとるためには、教職員組合と教師の活動の転換がカギである。戦後の日教組と教師は、「平和教育」の実践を基礎に戦争に反対し平和を擁護する日本人民の闘争の先頭にたって、社会の未来をになう健全な子どもの育成のための運動をすすめてきた歴史をもっている。しかし、教職員運動において、こんにち、もっとも重要なことは、「戦争と平和問題」と「権利擁護の課題」を基調とした運動とならんで、今後は「教育荒廃」の克服を中心とする教育実践に相対的重点を置くことである。これまでの教育実践は、教師一人一人が考えておこなうなど、個人の責任にゆだねられていたが、これを組織的、集団的におこなうようにされなければならない。

政府・文部科学省、自民党は、戦後の民主主義と教組運動が「教育の荒廃」をもたらした大きな原因であるとして、その攻撃の矛先を教師にむけて、教師と教職員組合を国民から孤立させて反動的教育方針を強行しようとしている。すでに、新学習指導要領が導入され、そのうえにたった総合的な学習がつよめられている。学校現場では、総合学習の強化によって、「教科指導に追われ生徒指導に手がとどかない」、「これまで教えたこともない授業の勉強まですることになる」、「学力の基礎としの読み書き計算の時間が不足した」、「校外活動や宿題のまとめの時間がおおくなるので、家庭の宿題など減らすことになる」とおおくの教師がいっているように、子どもへの負担、学力の低下が進行している。さらに、政府・文部科学省がうちだした画一教育から個教育への教育方針の転換――具体的には「教えこむのではなく、支援してやる気をださせる」、「しかるよりほめよ」という教育方針――のおしつけは、実際には授業に「ゆとり」がなく、子どもが過密日課に追われ、その結果「おちこぼれ層」がつくりだされる根拠となっている。教師たちは、子どもに「しかる指導」もできず、教育実践ではたじろぐ意識や雰囲気すら生じている。
教育運動の前進のためには、まず、子どもの見方をただすことである。子どもは、社会的な存在であり、未来社会の担い手である。子どもの物の見方、考え方、生活態度などはかれらが生まれてから、これまでの家庭生活、学校生活、社会生活のなかで形成されている。子どもは、ほんらい心身ともにはつらつと成長していく世代である。かれらは、あたらしいものに敏感で、知識欲が旺盛で、身体の成長をよろこびとする発展的志向をもっている。また、誠実で友達をたいせつにし、はたらく親を尊敬する健全な資質をもっている。しかし、現実の社会のなかで、不断に生みだされる腐敗思想、まちがった考えなどの影響もつよくうける。とくに、親、家庭生活からの影響はさけられない。小・中・高校生をもつ親世代の大半は、「高度経済成長」期にそだち、七〇年代の大きな変化をとげる時期の生活様式と習慣のなかでひろまった後退的な思想意識――マイホームやマイカーなど、個人生活のわずかな繁栄に充足感をもつ――の影響をするどくうけており、それが子どもにも反映している。この点について、教師、父母は自覚し子どもに対応しなければならない。
二つ目は、少人数学級の確立のためにたたかい、学級集団づくりをすすめることである。おおくの教師は、子ども一人一人を大事に考え、ゆきとどいた教育の実践をもとめている。教師は、子どもと自分の一対一の関係を基準にした教育をしたいという思いを基礎に、教師同士が意見交換して学級集団づくりをすすめ、三〇人以下の少人数学級の実現(欧米では一学級編成は二〇人程度)のために奮闘しなければならない。
三つ目は、学校と地域との関係を勤労者の立場からふかめていくことが重要である。以前は、横丁のおっちゃん、おばちゃんが他人の子どもをしかりとばすのは当たりまえであった。しかし、最近はこのような光景にすら目にすることはほとんどない。地域で子どもを育てるという環境がとぼしくなっている。したがって、学校・家庭・地域でハイキング、読書会、音楽会、体育会などを組織し、子ども同士の協同生活をつくりだして、子どもの視野をひろげ、勤労市民とのむすびつきをつよめる活動がなによりも重要であり、教職員組合と教師のこの活動における指導的役割がもとめられている。