「愛国心」―――ちょっとひどすぎる話

元化学労働者 島田健作

『労働通信』2003年3月号

 これは、九州の福岡市に住む知人から聞いた話です。市内に一五〇校ほど小学校があるそうですが、そのうちの六〇校ほどで、六年生の通知表の社会科の項目に新しく「愛国心」や「日本人としての自覚」を設け、そうした心情をどれだけ抱くようになったかの三段階評価をおこなうようになったというのです。福岡といえば、韓国など朝鮮半島の人々をはじめ、外国籍の子どもたちも多いところです。

 しかも、福岡市は「アジアに開かれた国際都市」をうたっているほどです、アジアはもちろん、欧米国籍の子どもたちも同じ学校に通っています。ところが市教委はこの問題に限って、通信表は校長の裁量に任されてるといって無関係を装うことに懸命なのです。

 もちろん、外国籍の子どもたちがいなくても、子どもたちの愛国心を成績評価することは「内心の自由」という子どもたちの人権を侵すことになります。到底、許されることではありません。

 では、成績評価さえしなければ、子どもたちが愛国心を持つように教育していいでしょうか。しかし、これも良くないことです。人が自分の生活と切り離せない「国」にたいして愛着を持つのは当然です。その国にとって良いことがあれば喜び、悪いことがあれば悲しむというのはいわば自然なことなのです。それは、自分自身や自分の家族、自分の住む街や郷土に対する感情と同じようなものでしょう。そうした感情は、その人が所属する〈セクション〉との関係で生まれる〈セクショナル〉な感情です。したがって、こういうセクショナルな感情を意図的に刺激したり、煽ったりすべきではないでしょう。なぜなら、その感情のセクト的性質から、愛国心のような感情は自己中心的で差別的なものになっていくからです。 

 その歴史的な経験が先の大戦でしょう。戦争は誰だって怖いものです。体験しているかしていないかに関係なく怖いものだと思います。では、なぜ、人々はそのように恐ろしい戦争を敢えて行ったのでしょうか。このことを私たちは真剣に考えるべきです。それが分らなければ、また同じ過ちを犯すからです。

 それは、われわれ国民が市場経済という世界の競争経済のなかで、愛国心を意図的に煽った結果、排外主義的な〈国益主義〉という間違った意識を持つようになったからです。市場経済の世界では、国益主義の追求は許されることと考えられがちです。しかし、そこに大きな誤りがありました。このことを〈反省〉しないままに、先の大戦を反省したとは言えないでしょう。たとえこの資本主義社会で、そうした反省がどんなに無理なことに思われようと、その反省こそが真の反省であるといえるでしょう。

 ところが、政府や一部自治体では、そうした反省をするどころか、むしろ国益主義を広め浸透させるために、「愛国心」とか「日本人としての自覚」とかを意図的に助長しようとしています。しかも、日の丸・君が代同様、教育現場では、子どもたちの内心に踏み込み、点数さえつけて、それを強制しようとしています。

 「国益主義」を何の恥ずかしげもなく主張しているのが歴代のアメリカ政府ですが、その自己中心的振る舞いが今回のイラク攻撃で広く認識されるようになりました。たしかに、世界にはまだ国境があります。経済的な国家間の競争もあります。ですが、だからといって、国民の愛国心を煽って、国益第一主義の道を歩むべきではないでしょう。他国との共存、共栄の道に反するからです。

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