子供と教育はどこへいく
『労働通信』2002年5月号
多くの課題はらむ総合的な学習
今年度から総合的な学習が実施される。文部科学省は、これまでの知育偏重のつめこみ教育の反省から、そのねらいとして次の点をあげている。
総合的な学習は、週三時間、年間一〇五時間から一一〇時間実施する。これまでの国語や算数などの教科の学習時間と内容は三割減ることになる。
本校では、これまで、次のような取組みをやってきた。
社会科の学習の関連でパソコンを使って各地の産業、気候などを調べる。福祉教育では地域の老人ホームをたずね、車椅子を押したり、乗ったり、介護の経験、交流をする。環境教育では、家庭から持ってきたゴミの分別を体育館でやる。缶やペットボトルなどのリサイクルを通じて環境を考える。市役所の係の人を呼んで話を聞く。地域の公害について、器具を使って騒音や排気ガスを調べる。また地域の沼の汚染状況を調べ、沼をきれいにするにはどうしたらよいかを考え、生活排水や台所の油の処理を家庭で実施する。六年生は、地球の温暖化、森林破壊、酸性雨などを調べる。
一昨年、私の学校は一〇〇周年を迎えた。わたしの学年の六年生は、学校や地域の歴史を次の各グループに分かれて調べた。@地域の歴史を年表にまとめる、A地域の古墳を調べる、B地域におおく存在している神社やお寺を調べる、C「七里ケ渡し」を調べる、D学校、地域の未来を考える。「七里ケ渡し」というのは、川の渡し場である。学校の近くには、利根川という日本でも有数の大きな川がある。徳川幕府は,江戸を守るため、大きな川に橋をかけさせなかった。対岸の村とは、舟を使って行き来した。渡し場の近くには「河岸」という、船荷の積み下ろし場があった。「河岸」の周辺(今の学校の近く)は、いろいろな商店があり栄えた。
昨年度、私の学年・四年生では、理科の関連でヘチマに取組んだ。
五月 ヘチマで学習したいことを子供たちから出させた。ヘチマの種をまいて育つ様子を観察する。
七月 ヘチマの成長を観察する。
九月 二〇センチぐらいのヘチマを味噌汁の具にして食べた。
九月 ヘチマの成長を観察する。
一〇月 「ヘチマ大研究」として、ヘチマを使った料理を作る。ヘチマをたわしにして、そのたわしを使って鉛筆立て、リースなどを作る。ヘチマからとったヘチマ水でエステの体験をする。ヘチマの名前の由来など歴史を調べる。
以上の内容で子供たちが各グループに分かれて取組んだ。一〇月末の学年発表の時は「ヘチマの歌」を歌った。取組み全体の子供たちの感想は「楽しかった」といった声がほとんどだった。
いま、全国各地で、地域・学校の特色を生かしたさまざまな取組みが試みられている。たとえば、身近な給食や駅弁から食材の輸入先の国を調べる学習も取組まれている。総合的な学習はまだ始まったばかりだ。評価をするにはもう少し時間が必要だ。
教育現場の先生方からは、@このままでは、子供の学力が低下するのではないか、A見学先との事前の打ち合わせや準備に時間がかかる、B見学にいく途中の安全確保の人員がたりない、C地域の老人や専門家の人を学校にまねく場合交通費などの予算がない、といった声があがっている。
文部科学省は、学力低下論などを受けて、今年の一月に「学びのすすめ」と題したアピールを発表した。内容は、学力向上をめざして宿題や補習の充実をうながしている。完全週五日制実施は、今年度、実施しない私立中は五六%、私立高は四一%にのぼる。
総合的な学習をどう考えるかについて教育の歴史からすこしみていく必要がある。
終戦直後の一九四六年、第一次アメリカ教育使節団が来日した。六・三・三制の学制の勧告と同時に教育の目的を、「民主政治と生活のための、個人の価値と尊厳の承認を基礎とするもの」であると位置づけた。戦前の教科カリキュラムにかわって、個性尊重の経験カリキュラムが提唱された。
子供の興味、関心を基礎にしながら、社会生活に必要な諸領域の経験を配列するカリキュラムに編成した。市民生活に適応し、改善していける能力の育成をめざした。主体的な子供の活動をとおして必要な知識を習得させる学習が実践された。社会科がその花形的位置についた。
連日、自動車工場、銀行など各地の見学が行われた。当時の教育実践はあちこち見学にいくので「はい回る体験学習」とよばれた。この体験学習は、一九五〇年代にほぼ終わり、長続きしなかった。その理由として、@子供たちの学力低下から、親たちの不安、批判が高まった、A先生方がつかれてやりきれなくなった。当時、いまでは考えられない七〇人学級もめずしくなかった、B理念だけが先行した。当時の日本は、敗戦のなかで荒廃し、生活していくのに精一杯だった。豊かなアメリカ社会とは、まったくちがっていた。
「戦前の注入教育批判では一定の前進がみられたが、反面、主張が、教育方法論にかたむいているため、戦前の天皇制教育のもっていた非合理的な教育内容を徹底的に批判することをさまたげる結果となった。逆に、戦後、文部省新教育論は、故意か意識的にかこの点に触れずに、知識は実際の日常生活に役立つもの、それが価値のあるものだというふうに、実用主義のほうにそらしていった。
科学的真理に依拠して教育内容を編成するという教育課程観は、戦前もそして戦後も希薄であった。それは、科学を大衆のものにさせることへの本能的な恐怖感のあらわれであった。明治以後、くりかえし『教育』と『学問』の分離を主張しつづけ、科学的真理の導入を拒否していた。戦後の経験主義教育では、経験が至上となり、科学はその独自の体系と役割を否定され、経験の手段の地位に従属させられた。日常的な生活のための科学となり、歴史的な発展のみとおしを洞察する歴史科学、体制批判の科学の性格は否定された。」(海老原治善著『民主主義教育実践史』)
その後、科学の成果に依拠して、教科内容を系統的、順次的に編成することへの重要性が提起された。数学教育者協議会、科学教育者協議会、歴史教育者協議会の実践がすすんだ。以後、民間教育運動(日教組教研も含め)は、教科内容を科学の成果に依拠して、質的に再編成していく研究方向がしだいに明確になった。
私の学年の学校、地域の歴史を調べる学習は、「知った」「見た」「聞いた」という段階である。そこから、たとえば「七里ケ渡し」の学習の場合、当時の江戸幕府の政治、経済と人々の生活や暮らしについて学習をすすめる計画をたてる必要があった。今回の学習では、そこまで深めきれなかった。見学や体験学習の場合、子供たちにつかませる内容と具体的な計画が重要であることがわかった。
これからの新しい実践が今、各先生方に期待されている。