『労働通信』2001年11月号
『機会不平等』(斉藤貴男著、文芸春秋)を読んで、いまの教育問題について深く考えさせられた。
斉藤氏はこの本のなかで自分の生い立ちについて書いている。少し省略して紹介すると、「私は鉄屑屋の家に生まれた。父はいつも汗と油にまみれて働いていた。都市銀行の池袋支店がスチール製の事務用品を大量に処分するのを引き取りに行く父を、私という正反対の怠け者が、バイト代に釣られて手伝ったのは、都立高校の一年か二年の夏休みだった。ひと通りの作業を終え、通用門のところで腰を下ろして休んでいると、通りかかった行員が露骨に顔をしかめた。まるで汚いものを見るかのような目で、その若い男は父と私を見下していた。上等じゃねえかと、血気盛んだった私は反射的に立ち上がりかけたが、父の逞しい両腕に制された。『やめとけ』。微笑みさえ浮かべながら私を諭す父と、おろおろと慌てて立ち去って行く行員とを見比べて、私は誇らしかった。それまで迷っていた私は、この瞬間、鉄屑屋を継ぐのも悪くないと思い始めた。肉体労働こそ男の仕事。大学に行きたいと考えるようになっても商学部ばかりを受験した。私ももう、肉体労働者かどうかなど、人を表面だけで判断するほど単純ではない。ただ、額に汗して働く人間を平気で小馬鹿にできる者が、『改革』の美名の下、社会を都合よく変えてしまおうとしているのを、そのまま見過ごしているわけにはいかなかった」。
ここに斉藤氏がこの本を書いた目的がある。
来年度から学校五日制にともない新しい教育課程・新学習指導要領がはじまる。その教育内容のもとになったのが教育改革国民会議の報告である。この本は会議の内容、メンバーの教育に対する考え方を豊富な資料にもとずいて論断している。
おもなものを紹介すると……
江崎玲於奈(ノーベル物理学賞受賞者)教育改革国民会議座長は「人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる」とのべている。
三浦朱門(前教育課程審議会会長・今回の学習指導要領の下敷きになる答申をまとめた最高責任者)は「できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。今まで、中以上の生徒を放置しすぎた。中以下なら『どうせ俺なんか』で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。咋今の十七歳問題は、そういうことも原因なんです。国際比較をすればアメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければいけません。それが、『ゆとり教育』の本当の目的」などと語っている。
また、斉藤氏は「企業の論理」からの教育改革を鋭く批判している。
いま、学校現場では、新学習指導要領の試行期間として「生きる力」などを目的とした「総合学習」が具体化されている。「総合学習」の実施時間ぶんだけ教科の学習時間は三割削減される。「総合学習」は「体験学習」が中心である。現場の研修のほとんどは「総合学習」について時間を費やしている。教師のほとんどはどの子にも平等に学習する機会を与えたいと考え、実践している。それゆえ私自身もふくめ現場の教師はもっと視野を広げる必要がある。
「教育改革の本質をつかめ」。
斉藤氏は『機会不平等』のなかで私たち教師にこう呼びかけているように思えた。