『労働通信』2001年7月号
小泉内閣が成立して、二カ月あまりがたち、参議院選挙の日程がせまっている。小泉内閣の支持率は、驚異的な数字であるし、小泉首相は口をひらけば「改革」をさけび、彼を批判することがまるでタブーであるかのような風潮がつくられてきた。だが、その「改革」の中味を検討してみれば、「衣のそでに鎧」がみえてくるといわざるをえない。
小泉内閣の特徴は、いろいろあるがその第一のものは、彼の内閣がマスコミの操作によって成立したということにある。
ほんらい、自民党の総裁選挙は一般国民にはまったく関係ないことである。なぜなら自民党の総裁をえらぶ権利は、自民党の党員と党友だけにあり、それ以外は選挙権がないからである。しかし今回の総裁選挙はまったく異例であった。それは森前首相をえらんだ過程があまりにも密室的であったことへの批判を逆用し、「ひらかれた総裁選」を看板に徹底的にマスコミを利用し、ふんいきをもりあげたということである。おかげで野党の存在すらけしとんでしまい、まるで日本の政治は自民党一色といった観になってしまった。
ある外務官僚出身の民主党議員が田中真紀子外務大臣の行動を批判したところ、「外務官僚の手先」「大臣を批判する前に体質をかえろ」「大臣を批判するより機密費問題を解決しろ」などのメールやファックスが大量に送られ、「これでは内閣の失政を批判できない」という状況にまでなっている。
特徴の第二は、田中真紀子、石原伸晃などの「人気」代議士や竹中平蔵慶応大教授を閣僚にいれるなど、いままでの派閥均衡組閣を廃し、「人気者」と「実力者」を大臣にすえていることである。田中真紀子や石原などは政治的にまったく未知数であるが、じゅうらいの派閥順おくり手法をもちいない組閣方法で国民の人気をえようというのである。
あんのじょう田中外務大臣は、外務官僚とのあつれきを激化させ、外交日程がくるう始末となっている。塩川財務大臣にいたっては、先進国蔵相会議や国会答弁で失言をしでかし、恥をかいている。
それをまたマスコミがおもしろおかしくワイドショーばりに報道し、小泉内閣をバックアップする風潮をたくみにふりまいている。
特徴の第三は、小泉首相が「改革」を声高にさけび、ワイドショーばりのマスコミ報道がかっ歩するなかで、かんじんの「改革」の本質がぼやかされていることである。
なるほど、国民の内閣支持率はひじょうに高い。おおくの勤労人民は、リストラと首切り、「合理化」の嵐のまっただなかにあり、将来への展望がまったくみえてこない。それに景気は回復せず、暗い話ばかりである。
こんな状況のもとで小泉首相のいう「改革」は、たいへん耳ざわりがいい。田中真紀子外相が、外務省を「伏魔殿」と痛烈に批判し、「改革」をはばむ外務官僚とバトルする様子が好意的に報道されている。労働者のなかにも「ひょっとしてなにかうまくかわるんじゃないか」「構造改革で一時的に痛みがあっても、いずれ景気が回復し、世の中がよくなるんじゃあ」という、あわい期待が存在しているのも事実だ。
ところがその「改革」の具体的な中味とその本質については、ほとんどあきらかにされない。部分的には竹中平蔵経済担当大臣がいう「痛みをともなう改革」がいわれているが、その中身はさだかでない。
ただ郵政事業の民営化と特殊法人がおこなう国の事業の民間移行、道路財源のみなおし、集団的自衛権の実行と憲法改正への願望、靖国神社への公式参拝だけははっきりしている。
とはいえ、ここにきて「痛みをともなう構造改革」の正体はすこしずつみえてきている。六月末には、不良債権の処理や医療・介護・福祉・教育などに競争原理を導入する経済財政諮問会議の基本方針がまとまり、その全貌がいちだんとはっきりとしてくるだろう。それは労働者を徹底したリストラと失業に追いこむだけでなく、中小零細商工業者や農民、高齢者や子どもたちまでも犠牲にしていこうとするものである。
そのなかで、じゅうらいの公共投資による利益誘導型の政治で利権をむさぼってきた政治家や官僚、一部資本家などとのあつれきもつよまっている。それは、これまでの政府主導型の日本的な資本主義経済モデルを、アメリカ的な弱肉強食の市場経済万能主義の経済モデルにかえなければ、これからの「大競争時代」にいきのこれないという独占資本、財界の主流の考え方がつらぬいている。
これにたいして、わたしたちは、利権集団や「守旧派」とよばれる連中とはちがう立場から批判していかなければならない。
現在、日本の銀行がかかえている、ぜったいに処理しなければならない不良債権は一二兆円といわれている。しかもこの不良債権は減少するどころか増加する傾向にある。公的資金を導入し、必死に再建をはかっても不良債権の処理はいっこうにすすんでいないということだ。
小泉内閣は、この不良債権が日本経済再生の足をひっぱっているとして、「公的資金導入」に反対した竹中平蔵教授を経済担当大臣に起用して「経済構造改革」をすすめようとしている。だがすこし考えていただきたい。不良債権の処理というが、それはもともとありもしないものを担保に銀行が資金を融資したことに端を発している。つまり不良債権を処理すれば現在銀行から融資を受けている企業がのきなみつぶれていくということではないか?
事実、竹中教授が銀行への公的資金導入に反対した理由は「このさい、つぶれるものはつぶしてもかまわない」という立場からであった。
企業倒産が規模の大小を問わずすすめば、とうぜん失業者が増大する。現在でも三〇〇万人あまりいる失業者が「構造改革」によって一〇〇万人はふえるといわれている。竹中大臣は「この失業者はIT産業で吸収できる」と公言している。たしかに軍事技術を民間産業に転用し、通信手段を活用したインターネットは一時的とはいえ、アメリカの景気を浮上させた。しかし現在の日本経済にはそのような余力はない。しかも「雇用が拡大した」といってもそれはパート、アルバイトなどの非正規雇用であり、労働者の生活水準は一〇年前よりも低下している。不良債権の処理は労働者には首切りと失業、生活水準のきりさげをもたらす。しかもそれはいつまでつづくかわからないしろものなのだ。
中小企業はもとより大企業までが倒産し、倒産までいかなくても正規雇用の労働者が減少したり、労働者の賃金が減少すれば、当然社会保障制度はなりたたなくなる。
自営業者が保険料を拠出する国民年金は、企業倒産などで保険料の滞納があいつぎその存続すらあやぶまれている。厚生年金にしても労働者の賃金が低下したり、首切りがすすむほど掛金が減少するので実際は先ぼそりだ。
健康保険にしても少子高齢化と失業者の増大で健康保険組合や国民健康保険も破たん寸前になってきている。日経連は高齢者にたいしては、子どもの被扶養家族にはいるのではなく、べつに高齢者用の健康保険制度をつくり、保険料を負担させようとしている。
このような状況をふまえて、社会保障制度の改悪がもくろまれている。小泉内閣のブレーンや三和総研、大和総研などの研究機関は、「四〇一Kのような確定拠出型年金の早期導入」とか「自助努力、自己責任」を強調している。ついさいきん、ひらかれた財政再建委員会では、厚生年金の民営化問題がとりあげられた。
小泉内閣のいう「構造改革」とは、あくまでも労働者への負担の増大と犠牲の転嫁であり、しかもそれをやりきったところで景気が回復する保障などまったくない。むしろ、首切り、賃下げ、リストラと社会保障制度の改悪のダブルパンチで、国内の消費市場をいっそうひえこませ、景気回復をいちだんと困難にせざるをえない。かといって、公共投資の拡大など旧来の景気回復策をとっても効果は期待できないばかりか国家財政の危機をいちだんとふかめることはあきらかである。資本主義は出口のないトンネルにまよいこんでいる。そして、小泉流の「改革」であろうと、旧来のやりかたであろうと、いずれをとるにせよ、労働者と勤労人民だけが痛みをしいられるばかりである。