『労働通信』2000年11月号
9月22日、教育改革国民会議の江崎座長は森首相に中間報告を提出した。政府・与党は、この中間報告にもりこまれた小・中・高校生にボランティア活動など奉仕活動を義務づけるための関連法案を来年の通常国会に提出する方針をかためた。
中間報告の内容 (詳細は資料を参考) は、家庭のしつけの問題から、親子がふれあう時間を増やすための「教育休暇制度」の導入といった企業への注文までもりこんでいる。
学校については、学級運営などに「改善」がみられない場合は教師の配置がえ、免職をもとめている。
教育改革国民会議(森首相の私的諮問機関)がうちだした17の提案をみてみよう。
ここでは、三つめの奉仕活動の義務化について、考えてみよう。
国民会議でもどのような奉仕活動を義務づけるのかといった点はつめられていない。文部省でも「奉仕活動の定義をふくめて検討する」といった段階で、与党幹部からは「消防団でも予備自衛官でも、介護でもよい」との声がでている。
国民会議は7月末にまとめた分科報告会のなかで、小・中学生には2週間、高校生には1カ月の奉仕活動をもとめ、将来的には満18歳の全国民に1年間の奉仕活動などを義務づけることを提言した。法案は、これを軸に検討がかさねられるみとおしだ。今後「2週間」にするのかといったつめや、授業中に実施するのか、夏休みなどにするのか、といった議論をいそいでいる。
奉仕活動の義務化については、国民会議の議論で、メンバーから「一律に期間をきめて義務づけることに違和感を感じる」「慎重に議論すべきだ」などの意見がでていた。文部省内でも「法律になじむかどうか問題がある」との見方がある。しかし文部省は、8月、全国すべての市町村にモデル地域をさだめ、小中学生約50人づつを一週間程度の奉仕合宿に参加させることを決定した。自発性が重要とみられてきた奉仕活動を一律に義務化することに反対論もおおい。
問題の第一は、義務化という名の強制である。
アメリカでの体験的な学習を経験してきた高校教師の報告によると「アメリカでは青少年の社会性の欠如や犯罪の増加の危機意識を背景に、1990年代初頭に法律が制定され、公園の清掃や介護補助などの奉仕的な活動が学校教育にくみこまれるようになった。おおくの学校や学校区で必修や卒業要件として実施されるようになったが、それまでアメリカ社会でボランティアとしておこなわれてきた諸活動を学校が窓口となっておこなわせるだけのものだった。
このため奉仕活動の強制は、ボランティアのおしつけであり、強制労働とおなじであるとする批判をまねくようになった。(以下省略)」
わたしたちの教育現場でも「自主的ではなく強制される奉仕はおかしい」という声がでている。
第二の問題は、奉仕活動の受け入れ先の問題である。
現在、全国の小中高校で総合学習の具体化で老人ホームなどの学習体験がさかんにおこなわれつつある。学習体験の受け入れ先はさまざまであるが、いま、その受け入れをことわるところがでてきつつある。現場の教師からは、受け入れ先の最後は「自衛隊しかないのではないか?」という声があがっている。
第三の問題は、奉仕活動が滅私奉公の精神でかつての「忠君愛国」につながる危険性である。現場の教師からは「徴兵制につながる可能性があるし、君が代・日の丸の強制に見られるようにつながるのではないか」という声が出ている。
しかし奉仕活動は必要だとして、支持する声もある。NHKの世論調査では、半数近くが賛成する結果がでていた。
いま、教育現場では、他人への「思いやり」に欠け、わがままいっぱいの子どもたちの言動によくぶつかる。集団的な活動になかなか参加できない子どもが増えつつある。また、さいきんの青少年の犯罪の報道は、いやがおうでも人人に教育の危機をよびかけている。日本の政府・文部省もアメリカと同様の危機意識をもって奉仕活動を法制化しようとしている。
教育の危機は、どこからきているのか。さいきんの「そごう」「千代田生命」の大型倒産に象徴されるように、それは日本資本主義の経済、社会のいきづまりにある。リストラ・「合理化」、就職難は、中高年だけでなく20代の若者にまでひろがっている。時代の閉塞状況は、青少年に未来への夢や展望を見失わせ、勉強の意味や生きる意味をもたせることができない。
一方で不良債権をかかえた銀行などには数兆円の税金を湯水のように投入する。貧困にあえぐ人人には関心がなく「自分さえよければ」とする考え方や「弱肉強食」の倫理観は、感受性の豊かな青少年にするどく反映し、凶暴な個人主義となり、ときには暴力や犯罪となってあらわれる。
この社会構造からくる教育の危機は、一家庭、一教師、一学校の努力ではどうすることもできないところにきている。
今回の教育改革について考える場合、現在の教育の現状と問題の背景についてはっきりさせることが大切である。